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信教寺について
信教寺ご弘通の端緒は明治四十二年、佛立第四世日教上人より御諚を賜った高見日壽上人(現達師)のご奉公に始まっております。
ここ熊谷は、かの有名な関東武士熊谷直実が帰依入道して以来、浄土念仏信仰の盛んな土地でしたが、現達師は念仏檀家の正法帰入を願い、次々と折伏下種結縁され、三百戸の御信者を教化されました。
翌四十三年には早くも中西町(現在のNTT付近)に五百坪の土地を買い入れ、壮麗な親会場本堂を建立開筵しております。その蔭には清雄寺信徒、とくに山中亀太郎氏を筆頭に多数のご有志がありました。
新築の親会場に奉安した金丸御本尊は直径三尺五寸、日蓮大士御尊像は身丈四尺。熊谷ご弘通草創期、教講の御信心の篤さが、しかと想起されます。
当山を開基されました佛立第四世日教上人の時代、明治末年のご弘通ご奉公は、交通手段の中心は汽車と徒歩でした。鉄道の高崎線はすでに開通しておりましたが、群馬県下の太田や伊勢崎は大正になってからで、それまでは中山道(国道17号線)を歩いてご弘通を展開されたことは申すまでもありません。
当時の御信者のご奉公は、一言で申せば即実行実践であり、まさに法華経の「質直意柔軟・一心欲見佛・不自惜身命」そのままの素直一途のご奉公であったと拝察されます。
その顕著な例が大正十二年、関東大震災により本寺清雄寺本堂が消失したときです。末寺である信教寺は昭和十年秋、中西町の土地本堂を売り払い、本寺再建資金として御有志させていただいております。親会場をなくした御信者は熊谷裁判所前の民家の二階を借受け仮本堂としましたが、残念ながらこの一件で退転する信徒も相次ぎ、百五十戸弱までに減少しております。
とはいえ、世の中捨てたものではありません。中西町の親会場取り壊しの関係者の一人に、大工金子茂三郎氏がいました。当時のようすを、孫でありやはり大工を家業とする金子辰雄氏(現在八十五歳)にうかがうと、正義感に強く情に厚かった茂三郎氏は、親会場取り壊し作業に関わって御信者の悲痛と難儀を目の当たりにし、自分の所有する箱田町の土地を提供しようと決心されたそうです。
こうして昭和十一年、現在の箱田町に信教寺の名を残すことができたわけですが、まさに金子茂三郎氏は法華経に説かれる「変化の菩薩」と申せます。もちろん御信者さん達も親会場支部長の杉浦増五郎氏が中心となってご奉公に邁進され、新本堂の建立をなしえました。この間の御信者さん達の精進と苦労は筆舌に尽せぬものがありましょう。ちなみに金子辰雄氏は新本堂建立の大工さんです。
栄枯盛衰は世の習いと申します。これからのご弘通は、近隣周辺地域と手に手をとっての協調を忘れてはなりません。
御祖師様の「一天四海皆帰妙法」の理念のもと、万民の正法帰入を願い、教講一体でひたすら護法愛宗の血脈を受け継ぎ。佛立魂を絶えることなく未来へ伝えてゆくことです。
平成二十三年一月、信教寺は創立百年を迎えました。私ども教講は、日教上人の御教えをあらためて肝に銘じ、信心改良の出発点ととらえさせていただいて、創立百五十年に向かいたい所存です。
住職 濱田 日重

明治44年 熊谷親会場 御宝前
~当山歴代住職~
開基 佛立第四世 日教上人
二世 御牧日行上人
三世 高見日壽上人(現達)
四世 丸 日真上人
五世 高田日開上人
六世 石田日堅上人
七世 佛立第十六世 日幹上人
八世 岡 日到上人
九世 濱田 日重(現住職)
つづれおり新聞





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